sake 日本酒を学ぼう!

【連載】日本酒の生酛系造りの手法の違いによる味わいの特性(1)


酒匠・日本酒学講師としてもご活躍されている石黒建大さんの「日本酒の生酛系造りの手法【丹波流(灘)と能登流(能登・加賀)】の違いによる味わいの特性および販売市場特性に関する研究」について、酒蔵プレス独占で4回にわたり研究内容を特集いたします!

日本酒を普段から飲んでいて生酛造りについてよくご存知の日本酒ファンや日本酒を飲み始めて生酛造りをあまり知らない日本酒初心者にも新たな発見になる内容です。

生酛造りとは?

まず第一に「きもと」と読みます。生酛造りとは酒母を手作業で造る時間と手間のかかる昔ながらの酒造りです。酒母とは、糖をアルコールに変える酵母菌を増殖させたものです。

実は、酵母菌を増殖させるのに重要なのが乳酸菌です。日本酒造りにおいて、乳酸には雑菌を死滅させるという役割があり、乳酸の含まれていない酒母では雑菌によって腐ってしまいます。

通常の日本酒造りでは乳酸菌は人工のものを使った酒母「速醸酛(そくじょうもと)」で造りますが、生酛造りではその乳酸も手作業で造ります。
天然の乳酸、つまり蔵に住み着いている乳酸を使った酒母を「生酛」といいます。

米や米麹をすり潰し、乳酸が発生しやすい液体にして、空気中の乳酸菌を取り入れて増やします。速醸酛の場合、約2週間で酒母ができあがるのに対し、生酛は約1ヶ月かかります。

生酛造りの始まり

生酛造りがいつどこで始まったのかは明確ではありません。

安土桃山時代には、蒸米と糀米を合わせ、粒泡の立つ頃に釜に入れて煮込み、泡立ちを見て急速に冷まして改めて発酵させる太古に行われていた方法である「醴(あまさけ)式酛取法」の「煮酛法(仁本法)」を用いた金剛寺の「天野酒」の方が高級酒としての完成度が高かったようです。

また、江戸初期に主流となっていたのは、奈良正暦寺流の「南都諸白」をベースにした酒造りで、全国へと広がり各地で「○○諸白」と言われるようなお酒が出ていました。南都諸白の酒造りは、当時では非常に画期的な酒造りの方法であり、東北地方の一部の藩では奈良から蔵人を呼び酒造りをさせたという話が残っております。

なお「南都諸白」のベースともなっている「菩提酛」の酒造りは、晩夏に行われるので雑菌が入る可能性が高く、安定感に欠けます。

そこで「酛立て法」を用いて寒造りの酒造りを行う事で腐ってしまう確率を下げ、より安定した乳酸発酵できる方法を模索したのが、南都諸白の酒造りであり、伊丹においてさらに改良を加えられた「山卸の手法」を用いて「生酛の酒造りの技術」として進化しました。

ほぼ初期の生酛の技法が完成し、暴れん坊将軍で有名な八代将軍徳川吉宗公の治世(1716~1745年)で、農業の技術革新や新田の開発が進み、世の中のお米が余ったことで、その解消にお酒造りを奨励していました。

灘酒が台頭となった後、老中田沼意次公の田沼時代(1751年以降)に貨幣経済が活性化しました。世の中が豊かになり始めた頃、灘でもマニュファクチャーによる酒造りが行われるようになり、現在に近い「生酛の技法」が確立したと考えられています。

一方、菩提泉で行われていた菩提酛を使用した酒造りは、独自の進化を遂げました。寒い時期に低温による酒造りが可能な「水酛の技法」へと進化し、大正時代に至るまで酒造りの技術として用いられました。

明治42年には、江田鎌次郎技士の手により、腐造を防ぐ安全醸造の観点から水酛での酒造りの技術をベースにして、酒造りの工程を省力化した「速醸酛」の技術が開発されました。

まとめると「菩提泉」から「南都諸白の酒造り」へ進化する過程において、「寒造りの酒造り」が行われるようになり、「酛立て法の技法」が確立、米と水の精選を重要視、現代に通じる「三段仕込みの手法」が確立、従来の甕や壺を使用した酒造りから桶を使用する等、酒造技術の大幅な改良が行われました。

さらに、江戸時代初期の元禄時代には、本格的に「生酛の技法」として手で山卸が行われるようになったと考えられています。その後、現在の菊正宗酒造でも行われている足を使用した山卸の作業が行われるようになったそうです。

山卸の作業の進化

本格的に足を利用した山卸の作業を行うようになった理由で一番可能性が高いのは、伊達政宗公によって行われた慶長の遣欧使節であると考えています。

『伊達政宗の遣欧使節』松田毅一著では、使節団が長期に渡りスペイン内のシェリー酒の醸造所に滞在した事が書かれております。シェリー造りの過程では、足で葡萄をすり潰す工程があり、現代でも菊正宗酒造では、櫂を使わず長靴をはき、足で山卸の作業を行っています。

この慶長の遣欧使節が、日本にこのワイン造りの技法を持ち帰っていたと考えており、実際に仙台藩の酒造り所には、葡萄酒を作っていた記録が記念碑に残されています。

ただ、一説には仙台藩での葡萄酒造りは、焼酎に葡萄を漬け込む方法にて作られていたとする説が有力です。どちらにしろヨーロッパでのワインやシェリー酒造りの技術を基にした試験的なワイン造りが仙台にて行われていました。

また、その他に山卸の手酛の参考になったと考えられるのが「糠漬け」の方式で、糠に野菜を付ける方式は手酛を行った場合には、山卸の作業にも非常に参考となった方式でした。

白雪酒造が復刻した元禄の酒を見る限り、元禄期の徳川綱吉公の時代には、生酛による酒造りがある程度完成し行われていました。

現在と違いコンピューターもインターネットも、酒造りの機械もない時代に柱焼酎や酛立て法から進化した生酛による酒造りの技術が確立するのには相当な時間がかかったと思います。

あくまでもシェリー酒やワイン造りの技術や糠漬け等を参考にした方式から日本酒造りに応用した結果が、柱焼酎や手や足で山卸を行う事であれば、実際にシェリーやワインを造る工程を技術者が見なければ難しかったのではないかと考えられます。

その後、手や足で行われていた山卸は時を経て、灘でマニュファクチャーの酒造りの技法として、大量生産の過程で本格的に櫂棒を使った山卸に進化し、灘流の生酛の技術として確立しました。

酒蔵プレス編集部
お米が余っていたから酒を造るようになったり、海外のワイン造りや和食文化の糠漬けが参考になったり、様々な要因から進化してきたと言えます。古くから続く日本酒造りは今もなお、進化を続けています。

実際の論文はコチラ

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