酒匠・日本酒学講師としてもご活躍されている石黒建大さんの「日本酒の生酛系造りの手法【丹波流(灘)と能登流(能登・加賀)】の違いによる味わいの特性および販売市場特性に関する研究」について、酒蔵プレス独占で4回にわたり研究内容を特集いたします!
日本酒を普段から飲んでいて生酛造りについてよくご存知の日本酒ファンや日本酒を飲み始めて生酛造りをあまり知らない日本酒初心者にも新たな発見になる内容です。
「前回の特集」を読んでいない方はこちらから
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【連載】日本酒の生酛系造りの手法の違いによる味わいの特性(2)
酒匠・日本酒学講師としてもご活躍されている石黒建大さんの「日本酒の生酛系造りの手法【丹波流(灘)と能登流(能登・加賀)】の違いによる味わいの特性および販売市場特性に関する研究」について、酒蔵プレス独占 ...
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江戸初期から幕末に掛けての市場の変化
1721年(享保6年)から1846年(弘化3年)までの一人当たりのGDPの成長は1.34倍で、社会が平和で労働者の5割以上読み書きそろばんが出来る状況下での消費者は、非常にシビアな眼を持つので、市場においては、どの商売においても競争は厳しくなり、労働者同士の競争自体もシビアである。
当然、商品やサービスの品がマーケットで厳しく審査され、酒一つ取っても元禄期と化政期では、全く別物になっていた。市場に置けるブランド力自体が厳しく問われ、江戸後期に水車精米や宮水の発見、酒造りのマニュファクチャー化が行われた灘酒が市場で強くなるのは当然で、社会が豊かに成るにつれて、封建社会の理不尽な部分に下級武士や農民、町人レベルでも気づき、江戸幕府の封建制度による管理制度は時代に合わなくなっていたように思われる。
その後、明治維新が起こり、天皇親政下の明治政府になってから起こった事と言えば、何よりもお金が全く政府に無いことである。そこで福井藩で財政再建に成功した由利公正公が新政府の財政を担当し、太政官札紙の紙幣を発行するなど、何とか財政を立て直そうとしたが、新政府開設当初は、武士への禄の支払いがあった上に、各藩がまだ地方政府として存在し、銘々で徴税権を持っていたので、新政府自体にお金が無いので、信用力が全く無く太政官札は額面割れした。
その後、藩を廃止し、四民平等で武家を廃止し、1872年に国立銀行条例が制定され、1873年に第一国立銀行ができ、その後、各地にナンバリングされた銀行が数多く出来きたが、各々で銀行券を発行したため、当然のようにインフレーションが発生し、収拾がつかなくなった。しかし、1882年(明治15年)に日本銀行が設立され、今まで発行された紙幣が回収されようやく銀行券が日本銀行券に一本化された。
その間に、大名貸しで大儲けしていた上方の大商人は没落し、金融の街であった大阪も、この頃かなり経済的に厳しい状況になっていた。
明治初期の政府にお金がなく、上方の商人から散々お金を取り立てていた状況下の1871年(明治4年)に、酒造りが事実上自由化され、それまでお酒で設けてきた商人は大きな打撃を受け、1832年(天保3年)時点での灘五郷と西宮の酒造株が約51.6万石あったのが、明治維新期の1/3減醸令や酒造株鑑札の書き換え等で、事実上灘の酒造家の特権が消失し、1871年(明治4年)時の灘五郷と西宮の造石高は19.3万石まで一時的に減少した。
また、江戸期からの銘醸地であった堺は明治、大正期を通して反映し小規模ながら100軒近く酒造業者があり、造石高は堺全体で6万石を超えていた。
物流の変化と日本酒
1872年(明治5年)に、新橋・横浜間で鉄道が開通すると、鉄道網は発展を続け、1889年(明治22年)には新橋・神戸間が開通する等、全国に広がっていった。灘五郷と西宮の造石高もこの年には、約37万石まで増加し、この頃には東京だけでなく、鉄道や汽船を利用し、地方へも灘酒の進出が目立つようになっていた。
一方で、1899年(明治32年)に、東京都北区の滝野川に醸造試験所が開設され、1907年(明治40年)には、第一回「全国清酒品評会」が開催され、1909~10年(明治42~3年)には、速醸酛・山廃酛の技術が確立され、この頃に三浦仙三郎氏による軟水による醸造法をまとめた「改醸法実践禄」が公開される等、日本の産業の急速な近代化と共に酒造りの技術も急速な発展を遂げていた。
明治~昭和初期食生活の変化
清涼飲料水としてはじめに広まったのは「ラムネ」で、1868年(明治元年)に製造がはじまり、現在のビー玉で栓をする方式は明治20年代に始まった。あの戦艦大和の艦内にもラムネ製造装置があったようだ。
その後、1869年(明治2年)には、アイスクリームが日本で初めて製造され、1919年(大正8年)にはコーラとカルピスの製造が開始された。
ビールは1870年(明治3年)にスプリングバレーブリュワリー(キリンビールの前身のジャパンブリュワリーカンパニー)が設立し、1876年(明治9年)には、札幌に開拓使麦酒醸造所後のサッポロビールが開設され、1889年(明治22年)には大阪でアサヒビールが創業される等、1900年までに100を超えるビール醸造所が作られ、1887年(明治20年)時点で約26,561石、1919年(大正8年)時点で648,698石(1887年比の約24倍)、1939年(昭和14年)時点で1,734,435石(1919年比の約2.67倍)と明治20年比で65.3倍と大変な成長産業になっていた。一方で日本酒は、1887年(明治20年)時点で醸造石数が約3,806,198石であり、ビールの石数と比較すると、この時代は日本酒の方がかなりの数造られている。
明治の早い段階で炭酸入りの清涼飲料水が作られるようになり、昭和初期にビールが173万石製造されているのを見て、日本人は新しいもの好きでもあるが、それ以上に日本の蒸し暑い気候から、炭酸飲料やビールのような喉越しのスッキリする飲料全般に対しての需要があったと感じる。
一方で、カレーや肉じゃがやコロッケが、どこの家庭でも自宅で作られ消費されていた事を考えると、一番日本の家庭での食生活に影響を与えたのは徴兵制度と識字率の高さが背景にあり、昭和後期からの日本酒の低迷の原因に食生活の変化についてよく言われるが、こうして見てみると明治以降から徐々に食生活の変化は起こっており、決定的に日本の食生活が変ったのは1970年昭和45年の大阪万博以降とよく言われるが、その前から食生活が変化する下地自体は作られていたように思える。
大正期~昭和初期に置ける日本酒のニーズと都市生活
1910年(大正10年)第8回「全国清酒品評会」では、目標とする優等酒の資格条件として色沢淡麗で青みを呈し、香気芳烈、風味濃醇であることを掲げていた。一方、この頃の市場のニーズは、逆に極力淡麗で飲みやすい酒が求められたように思われる。明治後期~大正時代は比較的平和な時代で、食生活も以前より豊かに成り、1909年(明治42年)から1935年(昭和10年)の間に、日本の経済規模は2.3倍にまで成長している。
確かに農村部はまだまだ貧しかったのは事実だが、昭和初期の日本は世界でも有数の先進国であり、都市部での食生活はかなり変化していた事が大正~昭和初期の家庭をモデルにした博物館の展示物からも理解できる。
昭和の戦争前には、国立大学や旧制の専門学校主に、今の私立大学も整備され、大正時代から一部の大学や専門学校では、夜間学部も開設されていたようで、今ほどでは無いにしても努力すれば裕福に成れる環境は整っていたように思える。実際に私の祖父も大学は出ていないが、蟹工船から始まり、独学で甲種機関長まで上り詰めた方で、うちの父親に祖父は、若い頃東海大学の二部に出来れば通いたかったという話をしていたそうだ。
経済、食、歴史、文化、社会状況の変化から考えた生酛造り
食事が変れば日本酒に求められる味わいも変わる訳で、市場のニーズが大正初期は、極力淡麗で飲みやすい味わいであったが、灘の生酛の味わいである「味に深みと柔らかさがあり、後味のキレが良くて爽やか」と言うのは現在でもあまり変わっていない。灘の大手蔵がマーケティングをしっかりして、灘酒の伝統を生かしつつ消費者のニーズと先々の食の変化を捉えた味を造り上げてきた結果だろう。
これまで、生酛造りを本筋として、食と経済、日本社会そのものを江戸時代~昭和初期まで検証してみて、私の生酛に関する見解は、灘流伝統の生酛造りやその他の地域(秋田流の生酛造り、能登杜氏伝統の山廃造り等)、それぞれの地域性や食、地域の事情に合わせて造られたものであり、必ずしも日本酒全体の伝統的な造りとは言い切れないと思う。
酒蔵の酒質や販路などは、古くから続く歴史が物語るものが多く存在すると思います。歴史を知って日本酒を飲み比べるのも新たな魅力の発見になります。