酒匠・日本酒学講師としてもご活躍されている石黒建大さんの「日本酒の生酛系造りの手法【丹波流(灘)と能登流(能登・加賀)】の違いによる味わいの特性および販売市場特性に関する研究」について、酒蔵プレス独占で4回にわたり研究内容を特集いたします!
日本酒を普段から飲んでいて生酛造りについてよくご存知の日本酒ファンや日本酒を飲み始めて生酛造りをあまり知らない日本酒初心者にも新たな発見になる内容です。
「前回の特集」を読んでいない方はこちらから
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【連載】日本酒の生酛系造りの手法の違いによる味わいの特性(1)
酒匠・日本酒学講師としてもご活躍されている石黒建大さんの「日本酒の生酛系造りの手法【丹波流(灘)と能登流(能登・加賀)】の違いによる味わいの特性および販売市場特性に関する研究」について、酒蔵プレス独占 ...
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江戸初期から中期までの経済と酒造り
江戸時代の初期から中期にかけての人口と経済を比較すると、人口が約254%、GDP比で約300%となり、平和になるにつれ、人口も経済も成長し、市場での競争もかなり激しかったことが予想されます。8代将軍吉宗公の江戸時代中期あたりから、新田の開発や農業の技術革新により、徐々に米が余り始めました。庶民の生活レベルが向上する代償として、米で給料を支給されていた武家の生活は徐々に厳しくなりました。また、酒造りの技術が進歩するにつれて、市場での酒の品質の競争が厳しくなり、池田の満願寺屋や摂津富田の紅屋の酒造株(酒造りの営業特権)は、酒造りの技術で勝っている伊丹や灘へ貸し出され、徐々に衰退していきました。池田酒の衰退にはもう一つの理由があり、1776年に満願寺屋と同じ池田で酒造りを行っていた大和屋との間で借財の返還約300両(現在の金額で約3000万円)を巡る騒動が起こり、幕府によって、満願寺屋に対して大和屋からの借財の返還と酒蔵特権である御朱印が没収された事も大きく影響しています。
この頃、上方の銘醸地である「伊丹・池田・摂津富田・西宮・灘」などの銘醸地の間で、江戸へお酒を卸すために、熾烈な酒質の競争が行われておりました。現代語の「下らない」の語源は、上方から江戸へ下れない(=卸せない)酒を意味しています。仮に下れたとしても、上方の酒同士での競争はもちろん、中国酒、愛知県の知多地方や三重県の四日市近辺、関東の地回り酒との市場での競争が行われていました。
一方で、元禄年間の1702年に5代将軍綱吉公によって行われた前田江戸屋敷御成において、前田家は加賀から酒を取り寄せたことで、江戸市場では伊丹酒*が明らかに強いと考えておりましたが、絶対的に強いとまではいかなかったように思われます。製造の現場においては、腐造と戦いつつ、江戸市場における需要の増加に伴う酒造りの作業の効率化、お酒自体の品質の向上、酒造りの道具の開発、改善と共に、海運においても船の性能の向上と航路の発見など、少しでも早く運搬できるように工夫が日進月歩で行われていたようです。その中でシェリー造りの工程や糠漬け、その他の技術を参考に、伊丹オリジナルの柱焼酎や酛立て法から進化した初期の生酛の技術開発が行われたと私は考えています。
*伊丹酒=「清酒発祥の地」とも言われている現在の兵庫県伊丹市で造られた日本酒のこと
江戸幕府の衰退×庶民の生活×酒
8代将軍吉宗公の「享保の時代」以降、幕末にかけて、江戸の酒の市場は、徐々に灘酒が台頭していきました。
その間に田沼意次公による商業の改革や、天明期の大飢饉を経て、松平定信公による寛政の改革による経済の縮小、化政期の江戸時代最大の好景気、水野忠邦公による天保の経済改革の失敗を経て、既に江戸幕府の封建米本位制での経済管理は不可能(江戸幕府開府の頃から半市場経済へ変化)になっていました。
この幕末の時代に経済の現場で行われていたのが、江戸と大坂間の金銀の為替、商人の支店と本店の間で信用取引と、帳簿と財務の管理、各藩での管理通貨である藩札の発行と流通、米や大豆相場に置ける先物取引など、コンピューターやトラックがない中で現代と同じような商取引です。松平定信公による「関東地回り酒」では、殖産興業である関東御免上酒の実施や、灘における水車による精米の実施、天保期以降の千石蔵の出現やマニュファクチャーに移行するための酒造道具の改良等が行われ、1840年には櫻正宗の山邑太左衛門により宮水が発見され、「生酛造り」においては本格的な櫂の利用による山卸が、酒蔵の実質工業化により必然となったと私は推察しています。
灘の酒は「しっかり旨味が有って後味のキレが良くスッキリした味わい」という当時の市場にも求められ、現代の灘酒もたどっている道筋を徐々に歩んでいたように思われます。最も、幕末のオランダ船員によると、当時の日本酒は「ふくよかでは有るが後味のキレに掛けて、もう一つ美味しいとは思えなかった」と言っており、幕末にフランスからシャンパンが持ち込まれた時には、そのシャンパンを口にした幕府の高級官吏に非常に受けが良かったということから、当時から日本人は「スッキリ爽やかな味わい」のお酒を潜在的には求めていたように思われます。
江戸幕府の末期には、国内で庶民旅行が行われるようになり、その結果、各地の宿場町が発展し、名物料理と呼ばれる郷土料理が形成されました。また、旅の途中で農民が農村に立ち寄ったことにより、農業技術が各地に広がり、御師による旅行が行われるようになった結果、一般人にも大名の正月料理のようなお膳が御師の家で提供されていました。
江戸時代のお膳も現代の高級旅館で出される料理と大差が無く、現代のように御師同士のサービス、料理人の腕前の競争があったと考えられ、調理技術も大幅に発展したと言えます。また、もちろんお酒も提供されていたので、お酒に関しても品質の競争がありました。この時代、「上方の酒」だけでなく、知多や四日市を中心として造られていた中国酒は「下り酒」として、江戸のマーケットでも一定の需要がありました。
明治時代以降の酒造りと輸出
時は流れて1909年(明治42年)は、山廃酛の造りや速醸酛の造りの技術が確立され、速醸酛による酒造りが少しずつ行われ始めた時期です。この20世紀序盤において全国清酒品評会では、広島酒が圧倒的な強さを見せていました。また、京都府伏見の月桂冠では当主の大倉常吉氏が、他の酒蔵に先駆けて杜氏制度はそのままで、大学院を出た技師を導入しました。その他にも、汽車で飲むための日本酒の小瓶を開発したり、海外から精米機を導入したり、美人画のポスターを作り広告宣伝を行って、国よりも先に蔵の中に醸造試験所を開設しました。広島県三津の三浦仙三郎氏は、灘での修行で得た醸造技術を「改醸法実践録」にまとめ、吟醸造りの技術を自らの手で確立し、広島だけでなく、日本全国の日本酒の品質の向上に貢献しました。
さらに時は進み、太平洋戦争前の1940年頃、日本の経済規模は1909年の約3倍にまで膨らんでいました。
酒造技術は、品評会、鑑評会において特に優れているとされた酵母に関しては分離され、きょうかい酵母として活用されました。灘の櫻正宗の協会1号酵母に始まり秋田の新政の6号酵母までの酵母が戦前に分離されています。1920年(大正9年)には、秋田県の渡辺醸造部で醸造技師の花岡正庸氏によって、現在の形に非常に近い吟醸酒が造られ、大正期には理化学研究所で鈴木梅太郎氏による合成酒が造られ、満州で後の三増酒の技術の基礎になる醪に直接アルコールを添加する第一次増産酒やアルコールや醸造用糖類を多く添加する第二次増産酒の技術が開発されました。
また、明治後期から昭和初期にかけて、既に外国の駐在員向けに日本酒が海外へ輸出もされていました。
※菊正宗酒造の資料によれば、明治45年~大正6年まで毎年約9千~1万石、昭和10年~14年まで8千~1.1万石を菊正宗酒造 1 社だけで海外へ輸出している。
2017年の日本酒出荷量は、1位が白鶴酒造の約317,600石、2位が宝酒造松竹梅の約301,600石、菊正宗酒造は8位で87,000石です。
海外への輸出数量は、1位が白鶴酒造の約16,700石、2位が月桂冠の約9,300石、菊正宗酒造が5位で4,700石で、おそらく現在の日本酒輸出量というのは、毎年増えていると言っても、戦前の大正から昭和初期と大差ないように思われます。
※数字の出典元:菊正宗酒造通信教育テキスト「日本酒の市場、日本酒蔵元の集積と海外展開-飛騨・信州の事例」